破片を掌に還す オタノカケラの静かな手仕事

割れた器の断片は、しばしば捨てられる。食卓で一秒の不注意でひびが入り、暮らしの手触りを失ったものは、もはや用をなさないと判定され、家の隅で静かに埃を被っていく。坂尾幸一の「オタノカケラ」は、その判定を静かに覆す実践である。壊れたものの縁を一本一本削り、掌にすっぽりと収まる碁石のような形へと整えていく。その行為は、単なる修復ではなく、かけらと時間とが再び手の中で出会うための対話である。

坂尾はこれまで、ミドリノヘヤプロジェクトやウォーターメモリーといった、一見つかみどころのないテーマを軸に、土地と人のあいだに沈む記憶をかたちにしてきた。誰の手にも届かないほど小さく砕かれた陶片や、ばらばらの状態に置かれた地域の物語を、彼はいつも手に取り、観察し、対話を重ねるところから始める。オタノカケラもまた、この一貫した方法論のうえに成り立つプロジェクトの一つである。

完成した作品は、概ね親指の頭ほどの厚みと幅に整えられる。不規則に割れた断面を少しずつ削っていくことで、鋭さが失われ、石を長い川の中で転がしてきたような自然な丸みが生まれてくる。最終的にそこに現れるのは、誰かが大事に使ってきた器のかけらが、新しい名前と手触りを得て静かに戻ってくる、そんな光景である。

かけらが持つ物語を引き受ける

オタノカケラの出発点には、「捨てられないけれど、もう使えない」という宙ぶらりんの状態への問いがある。坂尾のもとには、引っ越しや遺品整理の途中で見いだされた陶器の欠片が、各地の読者や参加者から届けられてきた。それらは形も色も厚さもバラバラで、一つとして同じものがない。

坂尾はその一つひとつを、まず手で触れて読む。割れの向き、釉薬の色、底の高台の有無、土の粒子の細かさ。そうした痕跡から推測できるのは、持ち主がどんな食事をしてきたか、どんな季節にその器をテーブルに並べてきたか、という生活の文脈である。欠片は単なる物質のかたまりではなく、持ち主の日常の断片としてそこにある。

扱いを誤ればすぐに粉々に砕けてしまう素材を、坂尾は両手のひらで支えながら、まず触れ、そして削る道具を選び取る。その慎重な導入の段階が、のちの工程すべての土台になる。

指先から生まれる碁石のような輪郭

削りの工程は、およそ三つの段階を経て進んでいく。荒削り、中削り、そして仕上げの細やかな研磨である。荒削りでは、鋭い角と不要な突起を金ノコやタガネで取り除き、かけらがほぼ碁石に近い厚みになるまで整える。中削りでは、砥石を使って表面の段差をならし、感触のうえから「まだ引っかかる」箇所を一つずつ探り当てては研いでいく。

仕上げの段階になると、坂尾は通常、目の細かいろ紙に切り替える。ここで重要になるのは、形を「丸くする」ことではなく、そのかけら固有の輪郭を尊重しながら、対称性と手への収まりを同時に高めていくことだ。両手のひらの中で転がしたときに、どの角度から握っても角が掌に刺さらない、という状態が最初の到達点になる。

こうして削り出されたかけらは、ほんとうに小さな石ころのように見える。しかしそれが手の中で温まってくると、かつてお椀の内側だった面や、釉薬が光っていた部位がふいに現れて、持ち主に一瞬の感情を呼び起こす。物質としての安定と、記憶の揺さぶりの両方を、小さな一個のうちに宿らせること。それがオタノカケラの仕立ての核にある。

一つひとつの動作が瞑想になる

繰り返しの一削りには、無心というほど神秘的な言葉では足りない時間が必要である。坂尾は、作業の前に必ず机を整え、砥石を水で湿らせ、布を広げるという段取りを踏む。これは儀式というよりも、自分の呼吸と手の動きを一致させるための助走のようなものだ。

削っている最中、視線はかけらの一点に固定される。その一点のまわりを砥石が半円を描いて通過するたびに、かすかな音が立つ。材料が削られる音と、削る道具が材料を撫でる音は、少しずつ位相をずらしながら重なる。数十分が経つと、作業者の肩の力みが抜け、呼吸が深くなる。

坂尾は、かつてタウンメモリーや水の記憶のプロジェクトで、地域の方々から話を聞くあいだにも、同じような呼吸の深まりがあったと話す。話を聴き、記録し、絵や言葉でそれを地域に返すという一連の行為の中で、彼はいつも「聴く」という動作を軸に置いてきた。オタノカケラの削りもまた、かけらの内側にある出来事に耳を澄ます行為である。

町の記憶と響き合う欠けがら

ひとつの欠片が持ち込まれた背景には、必ずと言っていいほど、その器が使われていた家の風景がある。地域の工房で焼かれた皿かもしれない、家族の誰かが遠方から持ち帰った湯呑かもしれない、そうした暮らしの記憶が、かけらの中に薄く層を成している。

坂尾は、オタノカケラのかけらを、その土地のワークショップや展示に持ち帰り、削り終わった作品と元の写真を並べて見せる機会をつくってきた。割れた状態とかたちを変えた後の姿が並んだとき、観客はそこに大きな物語の断片を見て取ることができる。壊れたことの痛みに留まらず、かたちを変えてなおそこに残り続けるということの静かな強さを、作品は伝える。

この試みは、すでに小さな町の声を聴いてという日記の中でも断片的に綴られてきた、地域の人々との対話の延長線上にある。坂尾にとって、欠片を削る手つきと、町の人から話を聴く身振りは、同じ一つの所作の表と裏なのである。

ワークショップで出会う手触り

坂尾は、不定期にこのオタノカケラの削りを行うワークショップを開いている。参加者は、自分の家に眠っているかけらを持ち寄り、あるいは会場に用意されたサンプルから一つを選んで、坂尾の手ほどきを受けながら実際に削ってみる。

参加者が最初に出会うのは、自分の手の動きが思ったように結果につながらないという小さな戸惑いである。力を入れすぎると欠けがさらに砕け、力を抜きすぎると砥石が滑って表面が曇る。その微妙なさじ加減を、坂尾は隣で見守りながら、ときどき声をかける。

用意される主な道具

  • 荒削り用の金ノコと小さなタガネ
  • 中削り用の各種砥石
  • 仕上げ用の耐水ペーパー
  • かけらを固定する小さな木台と当て布

作業段階のおおまかな流れ

  • 割れ口の突起を取り除く荒削り
  • 手のひらで転がして形を整える中削り
  • 表面を磨いて全体を均一に仕上げる研磨

数時間後には、参加者の手の中に、確かにそれまでと別のものになったかけらが収まっている。坂尾は、削り終えたかけらを一度手の中に留め、参加者とともにそれをじっと見つめる時間をとる。これまでの暮らしの断片が、自分の指をへて新しいかたちになった一瞬を、その両者が共有するのである。

形を手にしたかけらが帰っていく

削り終わったかけらは、原則として持ち主のもとへ戻される。遠い町で受け取ったものでも、封筒と小包のやりとりをへて、再びあたたかな手の中へ帰っていく。持ち主がすでにその世にいない場合でも、その器の来歴を一緒に調べ、地域の縁側や棚にしばらく預けられることもある。

かたちは変わっても、そこに眠っていた時間の重みだけは変わらない。割れる前よりも確かに手になじむその小さな石のようなかたちは、持ち主の暮らしのどこかで、長い時間をともにすごすものとなる。

坂尾は、かけらが持ち主のもとへ旅立つ瞬間を、いつも静かに見送る。割れるという出来事を経てもなお、その器と暮らしの間にはかたちを変えただけのあたたかな時間が流れている。

坂尾のもとへのかけらの持ち込みや、ワークショップへの参加、作品に関するご相談については、お問い合わせよりご連絡を寄せていただきたい。一つひとつの欠片に、できるかぎり丁寧に向き合いたいという思いが、坂尾の活動のいちばん奥にある。