町の記憶プロジェクト 古い郵便受けの蓋が開く小さな音を残す
坂尾光一が取り組む町の記憶プロジェクトは、懐かしい風景の中にあるささやかな音に着目しています。郵便受けの蓋がカチッと開く音は、多くの人に覚えのある日常の音かもしれません。しかし実際には、新しい住宅では金属的な共鳴を伴わない軽量なポストが増え、かつてのように蓋が跳ね上がる音は少しずつ消えつつあります。
このプロジェクトは、消えていく音の記憶を掘り起こし、地域ごとの手仕事の痕跡を音として保存しようとする試みです。坂尾は東北や北陸の古い町並みを歩きながら、住民の協力を得て、現在も現役で使われている郵便受けの音を丁寧にフィールドレコーディングしています。録音対象は個人宅だけでなく、かつて商店だった建物の入口や、集合住宅の共用部分に設置された大型の郵便受けにも及びます。
録音作業は、特定の機材に頼るのではなく、その場にある空気や背景の音まで含めて拾い上げる方法で行われます。蓋が開く瞬間だけでなく、雨上がりの湿った空気、遠くで鳴る鳥の声、あるいは隣家の洗濯機の音までもが一緒に記録されるのです。こうして録音されたデータは、後の編集で背景音がそぎ落とされるのではなく、そのままのかたちで残されます。
こうして集められた音は、ただの音響データではありません。その場所に住んできた人々の時間そのものを封じ込めた、暮らしの化石のような存在です。聴く者はその音を聞いた瞬間、自分がその家の前に立ったような感覚に誘われます。視覚に頼らないからこそ喚起される記憶がある、というのが坂尾の考え方です。
古い郵便受けが持つ独自の響き
日本の古い住宅には、玄関の横に据えられた鋳物製の郵便受けが今も残っています。大きくて重い蓋は、開けるときに小さな金属音を立て、長年使い込まれたものは一音一音が少しずつ違います。鉄の厚みや塗装の剥がれ具合が、それぞれ固有の音色を生んでいるのです。
坂尾は、こうした郵便受けを「町の楽器」だと表現します。同じ町の郵便受けであっても、家の建てられた年代や受けた風雨によって響きは異なるため、地域ごとの音色の集合体が、そのまま町の声になると考えられるからです。
録音を行う際は、マイクを蓋のすぐ近くまで近づけるだけでなく、住宅の周辺環境ごと包み込むような配置を心がけます。これは、郵便受け単体の音色よりも、その音が生活の中でどのような文脈で鳴っていたかを大切にしているためです。時には蓋を数回開閉してもらい、最も自然な一打を録音するまでの過程を重視しています。
音を採集するという記録のかたち
一般的に記憶というと、写真や映像、あるいは文字で残されることが多いかもしれません。しかし音は、その場に身を置いたときの身体的な感覚と強く結びついています。蓋が開く音は、手を伸ばす動作や、届いた手紙への期待感とも結びついています。音が消えることは、皮膚感覚の一部が失われることに近いのかもしれません。
プロジェクトでは、録音した音源をその場で住民に聴いてもらう時間を大切にしています。自分が毎日当たり前のように聞いていた音が、外部の耳にはどう聞こえるのかを知ることで、聞き手自身が意識していなかった記憶が浮かび上がってくるのです。これは単なる鑑賞ではなく、自分自身との対話の場面となります。
また、録音データは単なる資料ではなく、後の展示やワークショップの素材としても活用されます。地域の図書館や公民館と連携し、集めた音源をまとめて聴くイベントも計画されており、音を通じた記憶の共有が進められています。聴くことを通じて、地域の物語が世代や立場を越えて伝わる仕組みがつくられています。
地域とともに変化していく記憶
町の記憶は、時の流れとともに常に変化しています。郵便受けそのものだけでなく、その郵便受けに手紙を届けていた郵便配達の足音や、蓋を開ける家族の様子までもが、音の風景を形作っています。プロジェクトの焦点は音の収集そのものよりも、こうした風景が失われていくことへの静かな警鐘でもあります。
坂尾が特に注目するのは、高齢化の進む地域において、こうした音がすでに失われつつあるという現実です。使われなくなった郵便受けは次第に撤去され、新しい形式のポストに置き換えられていきます。音が消えることと同時に、その音を知っていた人々の物語も薄れていくのです。
だからこそ、録音という行為には時間との競争という側面があります。プロジェクトは音を集めるだけでなく、その音を聞いた人がどのような記憶を持っているかを聞き取り、簡単なノートとして添える作業も行っています。音と記憶が対になって初めて、一つの町の記録として意味を持つからです。
耳を澄ますという姿勢について
このプロジェクトのもう一つの核心は、音を「聴く」ことへの意識的な姿勢です。坂尾は、音を探すために町を歩くとき、まず自分が今いる場所にどのような音が流れているかを、しばらく立ち止まって確認することから始めます。
現代の生活は多くの音に溢れており、私たちは無意識にそれを聞き流しています。しかし注意を向けることで、郵便受けの蓋の音だけでなく、木々の葉が擦れる音、水道管を流れる水の音、あるいは古い建物がわずかに軋む音など、これまで気づかなかった層が見えてきます。
こうした聴く力を養うことは、町の記憶プロジェクトだけでなく、日常のあらゆる場面において私たちの世界を豊かにしてくれます。プロジェクトに参加する人々は、音を聴くことを通じて、自分自身の感覚もまた研ぎ澄まされていく経験を得ています。
ワークショップで参加する音の採集
このプロジェクトは、特定の地域のアーティストだけが行う活動ではありません。一般の参加者とともに郵便受けの音を採集するワークショップが、定期的に各地で開かれています。参加者にとっては、自分が生まれ育った町の音を見直すきっかけになります。
録音に使用する機材は、必ずしもプロ仕様のものとは限りません。スマートフォンに基本的なマイクを接続するだけで、十分にその場所らしい音を拾うことができます。坂尾は、機材の完璧さよりも、音を聴く姿勢こそが重要だと繰り返し話しています。
ワークショップでは、録音した音をその場で聴き比べ、どのような違いが生まれるかを話し合います。同じ郵便受けでも、開ける力加減や天候、時間帯によって音は変わるため、参加者同士の発見が次々と共有されていきます。こうした場に参加することで、自分の日常に潜んでいた物語に気づく人も多くいます。
これらのワークショップには、坂尾が以前より進めてきた唐さんの日記に関する記録の試みとも通じる視点があります。日常のささいな出来事を丁寧に拾い上げることで、見過ごされてきた時間の厚みを取り戻そうとする姿勢は、どのプロジェクトにも一貫して流れています。
みどりの部屋プロジェクトとの連携
町の記憶プロジェクトで収集された音は、他のプロジェクトとも有機的に結びついています。みどりの部屋では、屋内の緑を囲む静かな空間の中で、こうした採集音を聴く試みが重ねられています。植物の緑と記憶の音が響き合う環境は、都会の中で失われがちな感覚を取り戻す場となっています。
屋外で収録された郵便受けの音が、室内という全く異なる文脈に置かれることで、聴く者は音の持つ新しい意味を発見します。例えば、雨の日には蓋の音がより低く響くこと、あるいは朝と夕方とでは金属の温度が異なり音色が微妙に変わることなどが、部屋の静けさの中で際立って感じられます。
こうした異分野との接続は、一つの作品や一つの空間に閉じない、記憶の広がり方を提示しています。音は移動し、文脈を変えることで、単なる記録から新たな表現へと姿を変えていくのです。プロジェクトはこれからも、他のアーティストや研究者との協働を通じて、音と記憶の関係をさらに掘り下げていきます。
未来へ残す音のかけら
坂尾は、長年にわたって音と記憶の関係を探求してきました。音の収集は、過去の保存であると同時に、未来へ向けた贈り物でもあります。今の子どもたちが大人になったとき、自分の町の郵便受けがどんな音をしていたかを知ることができるように、との願いが込められています。
これらの活動は、最終的に音のかけらという作品のかたちにも結実しています。断片として集められた音たちは、編集されることで一つの物語となり、展示空間の中で聴く者に届けられます。プロジェクトで生まれた音源は、イベントや展示を通じて広く公開される予定です。
郵便受けの蓋が開く音は、かつての日本家屋に当たり前のように存在した生活の音です。その小さな音が再び注目されることで、私たちは自分たちの足元にある記憶の価値に気づくことができるでしょう。坂尾のプロジェクトは、消えゆく音の中にこそ残る暮らしの豊かさを、未来へと手渡そうとしています。
プロジェクトのこれからの活動や、展示・ワークショップの予定については、公式サイトで随時更新されています。興味を持たれた方は、ぜひ一度サイトをご覧いただき、地域で開催されるイベントに足を運んでみてください。自分の町にも、思わぬ音が眠っていることに気づくはずです。