ペイントの剥がれ方に耳を澄ます、町の記憶プロジェクト
商店街のシャッターにほどこされたペイントは、年月のなかで少しずつ剥がれ落ちていきます。アーティストの阪尾幸一が手がける町の記憶プロジェクトは、この剥がれの過程そのものを記録する試みです。単なる老朽化として片付けられがちな塗装の褪せを、地域の歴史を語る重要な痕跡ととらえ、可視化する活動を続けています。
シャッターは普段あまり意識されることのない都市の表面ですが、開店前と閉店後に人の視線を集める、民意のこもったキャンバスです。阪尾は作品を描く画家という立場ではなく、むしろ既存のペイントを題材に、地域ごとの剥がれ方の違いを読み解く観察者としてフィールドを歩いています。プロジェクトは北陸や関東など、気候も歴史も異なる複数の街で並行して進められ、それぞれの剥がれ方を比較する資料が蓄積されています。
剥がれの写真は資料としての価値を持ちますが、プロジェクトでは手描きのドローイングと組合せてアーカイブされます。筆の運びで質感や層の厚みを再現することで、機械的な撮影ではとらえきれない細部が浮かび上がる構成です。観察の成果は作品展示や記録集のかたちで公開され、活動を離れた人々にも共有されるよう設計されています。
剥がれを記録するとはどういうことか
町の記憶プロジェクトの特徴は、消えゆく対象を保存しようとする姿勢ではなく、変容し続ける過程を記録の対象として肯定する点にあります。剥がれには必ず起点があり、水分の浸潤、金属部の錆び、紫外線の影響、あるいは人の手の脂など、多様な原因が複雑に絡み合って進行します。一枚のシャッターに残された剥がれのパターンは、年輪のようにその場所固有の歴史を物語ります。
記録者は一枚のシャッターを定点として選び、定期的な観察を重ねていきます。最初に目立った剥がれと、半年後のそれとでは、同じ一枚のなかでも主役が入れ替わっていることが珍しくありません。プロジェクトに関わる人々は、写真を撮ることを通じ、街を見る時間を意識的に引き延ばす訓練を受けていきます。剥がれた塗膜の下から素地が現れる瞬間は、街を見る眼そのものが更新される体験となるのです。
シャッターという素材の特殊性
建物の外壁や公共のベンチなど、都市には観察できる素材が溢れていますが、シャッターほどに民間の感情と密着した表面は他にありません。店主好みの色、家族の似顔絵、開業当時の心意気——それらが塗装という行為で示された後、歳月のなかで剥がれていくさまは、持ち主の人生の変容そのものともいえます。シャッターは金属であるという素材感そのものが、時間の経過を素直に受け止める性質を持っています。
プロジェクトではまず塗膜の層構造を把握することから始めます。下塗り、中塗り、上塗りの境界が曖昧になる箇所を特定し、再塗装されていないオリジナルのペイントがいつ施されたかを推定する作業が続きます。丁寧に見てゆくほどに、シャッターは単なる金属板ではなく土地の記録媒体として立ち現れてきます。観察を重ねる中で、店主への聞き取りも重要な手がかりとなります。
ワークショップでの実践的な関わり
アーティスト個人の活動に閉じないのも、このプロジェクトの特徴です。経験や画力は問わず、自分の目で確かめたいという動機があれば参加できる開かれた場として、ワークショップが各地で開催されています。商店街を実際に歩き、自分の気に入ったシャッターを一点選んで定期的に観察する形式で進められ、参加者は描画の技術を持っていない場合でも等しく参加できます。
初回と最終回を比較したスケッチは、一人だけの小さな町の記憶誌となります。観察の合間に交わされる店主との会話は、普段は閉じたままのシャッターの背景にどんな物語があるかを教えてくれます。剥がれの背景にある開業や廃業、改装といった節目を、参加者は外部からそっと見届けることになるのです。開催日程や申し込みの詳細は、ワークショップの案内ページで確認できます。
水の記憶プロジェクトと並べた視点
同じ関心は、阪尾が新潟で進める水の記憶プロジェクトにも通じています。こちらは雪解けや河川の痕跡など、水が地形に刻む記録を主題とし、人の手による剥がれと自然のリズムによる浸食の対比を読者に提示します。人の営みがつくる傷と、地球規模の動きがつくる傷とを並列に置くことで、地域の時間感覚が浮かび上がる構成です。
二つのプロジェクトを並べて眺めると、ある街では人の営みが時間となり、別の場所では水の流れが時間となるという、土地ごとの時間感覚の違いが見えてきます。プロジェクト全体の目的や記録の蓄積については、水の記憶をめぐる記録にまとめられています。
町を観察する最初の一歩
関心を持った方が無理なく始められる動線を、以下に整理します。
- 公式サイトのプロジェクト一覧を読み、各活動の趣旨と地域差を把握する
- 近隣の商店街のシャッターを一枚選び、季節を区切って定点観察を始める
- ワークショップの日程を確認し、自分の生活圏に近い会場があれば申し込む
- 展示期間中に会場へ足を運び、過去の記録物に直接触れる
- ニュースレターやSNSを通じて、新しい観察地の募集情報をこまめに確認する
剥がれを記録しはじめてみると、ものの見え方そのものが少しずつ変わっていきます。閉じたままのシャッターに確かに在る街の歴史を読み取る目は、やがて自分の暮らす町の解像度を静かに押し上げてくれるはずです。プロジェクトの最新情報や展示予定は、阪尾の公式サイトから随時発信されています。自分自身の町の記憶を、一枚のシャッターから静かに紡いでみてはいかがでしょうか。