潟の川が宿す記憶を漉き込む手漉き和紙の試み

日本各地で土地の記憶を手仕事の形に託してきた作家・坂尾幸一。新潟を活動の拠点とする彼は、河川や湿地、暮らしの痕跡を素材として読み解きながら、独自の表現を続けています。中でも近年注目を集めているのが、地域固有の水を素材として和紙を漉く一連の試みです。

その中心にあるのが、新潟水の記憶プロジェクトです。この企画では、信濃川や阿賀野川といった主要な河川から採取した水を漉き液として用い、紙を漉きます。水そのものを「記憶の媒体」と捉える坂尾の発想は、自然と人間の関係を見つめ直す契機を与えてくれます。

漉き上がった和紙の繊維には、その川底から持ち帰った砂粒や小石が丁寧に混ぜ込まれています。一枚の紙は、流域の地質や水質、季節の移ろいをそのまま閉じ込めた小さな地層となります。観る者はそれをめくり、指で触れながら、見えない時間の堆積を想像するのです。

企画の発端と地域の水文への関心

坂尾が新潟に根を据えてから十余年が経過しました。その間、彼は中越地方や下越の里山を歩き回り、点在する用水路や湧き水、農業用水の取り入れ口をスケッチしてきました。そうした現場での観察や聞き取りの蓄積が、やがて水そのものを素材として用いる着想へと結実します。

彼にとって川の水は、単なる原料ではなく、土地の声そのもの。流域ごとに異なる濁度や含有成分を、一つひとつ確かめながら漉き上げる行為は、地域に対する敬意の表現でもあります。新潟という場所の輪郭を、もうひとつの尺度で記述する試みとして、このプロジェクトは静かに広がっています。

活動の全体像や関連プロジェクトについては、坂尾の公式サイトにて詳しく紹介されています。サイト内ではワークショップの案内や、過去の制作記録も閲覧できます。

手漉き和紙と川の水が出会う瞬間

一般的な和紙漉きでは、楮や三椏の繊維を不純物の少ない清水に分散させます。坂尾の場合、採取した川水をそのまま漉き液に活用するため、繊維のなかに微細な土砂やプランクトンの痕跡が自然と残ります。これが彼の紙特有の、淡い褐色を帯びた温かな色調を生んでいます。

漉き作業は一日に数枚が限度です。気候や水温、水の粘度に合わせて繊維の濃度や攪拌の度合いを微調整する必要があるため、効率よりも対話が優先されます。水と繊維のあいだに生まれる偶然の混ざり合いが、紙の一枚一枚に固有の表情を与えるのです。

乾燥の工程では、和紙を板に張りつけて天日や風でゆっくりと乾かします。川から取り入れた水の記憶が紙の繊維として定着するまでのあいだ、作家は紙の傍らに腰を据え続けるといいます。

砂と石を漉き込む独自の手法

新潟水の記憶プロジェクトの大きな特徴は、紙を漉く段階で砂や小石を積極的に漉き込む点にあります。用いられるのは、その川が運んできた川砂、ときには川原にころがる小石を細かく砕いた粒子です。これらを繊維と一緒に漉くことで、紙のなかに目に見える層が生まれます。

光の角度を変えて見ると、紙のなかに微細な粒子が浮かび上がり、まるで標本のように流域の風景が透けて見えます。触れてみるとざらりとした手触りが残り、視覚だけでなく触覚にも土地の情報が届きます。坂尾はこの手法を、「土地の断片を紙に封じ込める」と表現しています。

興味深いのは、素材選びのプロセスです。同じ川でも上流・中流・下流で採取される砂の組成は異なります。季節によっても流れ込む粒子の量や種類が変わるため、採取のタイミングがそのまま作品の性格を左右します。作家は川と何度も通い会いながら、その時々の条件に応じた最良の配合を見極めていきます。

このアプローチは、彼の別のプロジェクトとも密接に関わっています。おたのかけらに関わる手漉き和紙の制作工程については、otanokakera-gereta-bono-po-pianwo-fuki-jiemetemozaiku-chuangno-shi-zuo-cec8でさらに詳しく読むことができます。

地域の記憶を宿す紙としての存在感

完成した紙は、展示空間に掛けられるだけでなく、地域活動や教育現場でも活用されています。子どもたちが川で採取した水と砂を用いて紙を漉くワークショップでは、自分の暮らす土地の輪郭を、みずからの手で作るという体験が提供されています。

紙の表面に残る粒子は、その場所に固有の自然史を物語ります。火山灰由来の黒色の粒子、海から遡上した微かな塩分、雪解け水の恵みを受けた春の鉄分。目には見えにくいそうした情報が、紙を介して可視化されるのです。

また、和紙という素材が持つ耐久性は、土地の記憶を長期にわたって留め置くのに適しています。適切に保存された紙は、数十年単位で地域の水文記録を保持し続けます。作家はこれを、未来の誰かに宛てた土地からの手紙と位置づけています。

展示と今後の展望

これまで新潟市内や首都圏のギャラリーで個展やグループ展が行われ、漉きたての和紙を直接壁に張りつけるインスタレーションが話題を呼んできました。観る者が紙に近づいて指先で表面をなぞることを推奨する展示は、視覚芸術の枠を超えた身体的な体験を提供します。

今後は流域を広げる計画もあり、信濃川と阿賀野川以外の河川でも同様の制作が検討されています。各地の水質や地形に合わせた漉き方を摸索しながら、土地ごとの「水の記憶」をアーカイブしていく構想です。

坂尾はまた、作家自身の手漉きだけでなく、地域住民や学生との協働による制作も増やしていきたいと考えています。プロジェクトが地域に開かれた対話の場となることで、新潟という土地の輪郭が、多様な人々の記憶によってさらに厚みを増していくことを願っています。

このプロジェクトは現在も継続的に展開されており、各地で漉きワークショップや小さな展示が行われています。川辺で紙を漉く静かな時間は、土地と自分のあいだにあった見えないつながりを、はじめて実感する機会となるはずです。川辺に立ち、みずからの手で一枚だけの紙を漉いてみることで、その土地に根ざす記憶の層に触れることができるでしょう。