川の記憶を墨に宿す 新潟水の記憶プロジェクト

新潟を拠点に活動するアーティスト・坂尾興一は、土地の記憶を芸術として昇華させる作品を数多く手掛けてきました。代表作のひとつが、新潟水の記憶プロジェクトです。これは単なる造形表現ではなく、地域の川と人々、そして自然エネルギーを結びつける実験的な試みでもあります。

このプロジェクトの根底には、「水を汲む」という行為そのものを問い直す姿勢があります。水道が整備された現代において、川から直接水を運ぶ体験はかえって貴重になりました。坂尾はそうした水を一滴ずつ太陽の熱で蒸留し、墨の原料として用いることで、土地固有の記憶を絵の中に留めようとしています。

雪国・新潟には、信濃川や阿賀野川をはじめ大小の川が人々の暮らしに寄り添ってきました。それぞれの流域には、土地の歴史や四季の移ろいが染み込んでいます。本プロジェクトは、そんな川と静かに対話し、その恵みを芸術へと転換する行為そのものを表現と位置づけています。

水という何気ない存在の奥深さに目を向けるこの試みは、芸術の枠を超えて環境や地域づくりへの問いを投げかけています。水をめぐる思索と、地域とともにある制作のあり方を、少しずつ紐解いていきましょう。

プロジェクトの発端と「土地の水」への眼差し

坂尾が新潟で本格的に制作活動を始めたのは、土地の風土と深く向き合いたいという思いからでした。新潟は稲作文化が根強く、人々の暮らしと水との結びつきがきわめて強い土地です。その一方で、河川環境のあり方や水源のかかえる問題が、社会の中であらためて語られる機会も増えてきました。

プロジェクトの出発点は、地域の人びととともに実際に川へ足を運び、バケツやポリタンクで水を汲むところにあります。水に触れる手触り、川辺の土のにおい、ともに集まった人々との会話。そうした体験そのものが、作品制作の一部として大切に受け止められています。

坂尾はかねてから「水にはその土地の記憶が溶けている」と語ってきました。同じ「水」という物質でも、信濃川のそれと阿賀野川のそれとでは決して同じではないのです。流域ごとに異なる水質を墨という形に転写することで、普段は見過ごされがちな土地固有の物語を浮かび上がらせようとしています。全体の構想については、プロジェクトの取り組みを読むことでさらに深く知ることができます。

太陽熱で蒸留する独自の制作プロセス

従来の墨絵制作では、市販の墨液や顔料を用いるのが一般的です。しかしこのプロジェクトでは、川から汲んだ生水をまず天日で蒸留し、不純物をできるかぎり取り除くという独自の工程を踏みます。

黒い容器に採取した水を入れ、直射日光の下で何日もかけて蒸発と凝縮をくり返します。こうして得られた水は、硬度や雑味が抑えられると同時に、蒸留過程に携わった光や気温といった、そのときどきの気象条件を内包しています。最終的にその水で硯に墨をすり、和紙へと筆を運んでいくのです。

電力を使わずに蒸留を行うこの手法は、再生可能エネルギーを生かした表現としても意味を持ちます。蒸留そのものが地域の気象と深く結びついているため、同じテーマで描いても季節や年ごとに異なる表情が浮かび上がる点も、このプロジェクトならではの特徴だといえるでしょう。

蒸留から墨すりまでの基本的な流れ

  • 川辺で水を汲み、採取地点や時刻、気温などを記録する
  • 黒い容器に移し替え、直射日光のあたる場所で数日〜数週間かけて蒸留する
  • 得られた蒸留水で硯に墨をすり、和紙に下書きなしで描き進める
  • 完成した作品と制作記録を併せて、地域や展示会で共有する

地域とともに歩むワークショップのかたち

このプロジェクトは、坂尾がひとりで完結させるものではありません。活動を下支えしているのが、地域住民や子どもたちに開かれたワークショップです。水を汲み、蒸留し、墨をすって絵を描く。その一連の時間をともに過ごすことで、参加者は自然と地域への新しい眼差しを育んでいきます。

学校の総合学習と連携した授業や、地域のお祭りと連携したイベントなど、活動の場は多岐にわたります。中には、遠方からわざわざ蒸留体験を求めて足を運ぶリピーターも現れ、プロジェクトは人と人をつなぐ媒介としても機能し始めました。

完成した作品は、参加者の思い出とともに地域の公民館やギャラリーに展示されることもあります。一枚の絵の背後には数えきれない手と時間が詰まっており、そうした「協働の痕跡」が可視化されることが、このプロジェクトの大きな魅力だと言われています。

ワークショップで大切にしている視点

  • 体験を通じて、地域の川の「今」を自分の感覚で受けとめること
  • 完成した絵の出来栄えよりも、過程そのものを共有することを重視する
  • 参加者が互いに気づきを語り合えるよう、振り返りの時間を必ず設けている

展示とアーカイブから読み取るこれまでの歩み

本プロジェクトは立ち上げ以来、新潟県内を中心に複数の展覧会やイベントで発表されてきました。流域ごとに少しずつ異なる水の性質が反映された作品群は、観る者に「同じ水はこの世にふたつとない」という静かな事実を伝えます。

過去の取り組み全体を見渡したいときには、制作ノートや関連資料をまとめた記録ページが頼りになります。試行錯誤の積み重ねがそのまま蓄積されており、プロジェクトが年月をかけて育まれてきた姿が見えてきます。

作品と記録の両方を読み解くことで、点ではなく線として続いてきたこの活動の輪郭が浮かび上がってきます。ひとつの展示が終わっても、そこで生まれた新たな出会いや問いが次の制作への種となっていく。そうした継続性そのものを大切にしてきたのが、新潟水の記憶プロジェクトの歩みです。より詳しい資料は、これまでの活動記録からたどることができます。

これからの展開と地域とのつながり

気候変動や水源の問題に対する関心が世界的に高まるなか、水を主題とする芸術的アプローチにも少しずつ注目が集まっています。新潟水の記憶プロジェクトもまた、表現と社会との接点を探る実験として関心を集めつつある試みです。

現在は、複数の流域や自治体との連携の可能性が模索されているとされます。上流域と下流域、あるいは都市部と山里部など、水を通じて見えてくる人と人との関係性に焦点を当てた展開も構想されているようです。

本プロジェクトは今後も、地域と水と芸術が交差する現場であり続けることでしょう。芸術祭や地域イベントへの参加を通じて、さらに多くの人びととともに「土地の水をすくい直す」作業を重ねていくことが期待されています。

プロジェクトの最新情報に触れたい方は、坂尾興一の活動拠点をぜひ訪れてみてください。展示やワークショップの開催予定はもちろん、関連する他のプロジェクトのあらましについても知ることができます。水と光と墨が出会う新潟の風土を、画面越しにも感じてみてください。