町の記憶プロジェクト 古い路地の煉瓦壁をパステルで蘇らせる

新潟の旧市街を歩くと、かつてこの路地には煉瓦造りの蔵が並び、雨風に晒されて少しずつ色を変えていった壁があったと店主が語ってくれたことがあります。画家・酒井晃一が手がける町の記憶プロジェクトは、そんな失われゆく色彩と質感の記憶を、パステルという柔らかい画材で丁寧にすくい上げる試みです。

写真ではどうしても平板になりがちな壁面の奥行きや、煉瓦の目地にたまった土の重み、夕日に染まる赤茶色の濃淡。それらを作家自身が足で通い、住民と対話を重ねながら一枚の作品へと落とし込んでいきます。プロジェクトは単なる風景画ではなく、土地の語りとともに呼吸する街の肖像です。

プロジェクトが歩み始めたきっかけ

酒井晃一が生まれ育った新潟の旧市街には、第二次世界大戦後に再建された煉瓦造りの建物が多く残っています。彼は幼い頃から通学路でこれらの壁を眺め、年月と共に剥がれ落ちる漆喰や、苔むした煉瓦の表面を記憶してきました。美術学校で油彩を学んだ後、もっと身近に、もっと手触りのある表現を追い求める中で出会ったのが、パステルという素材です。

発色が柔らかく、指先で直接ぼかすことができるパステルは、変色した煉瓦の微妙な色階調を再現するのに適していました。紙の上で粉が層を成すことで、煉瓦目地のざらつきや風化の質感がそのまま立ち上がってきます。素材選びは町の記憶というテーマと深く結びついています。

プロジェクト立ち上げの契機となったのは、商店街の空き店舗で古いペンキの剥離を観察した経験でした。壁の色あせには、その場所の歴史が層のように重なっている。酒井晃一はその発見を、多くの人と分かち合いたいという想いへと変えていきました。

路地を巡り、住民の声を聴く

作品制作に先立って、酒井晃一は必ず対象となる路地を繰り返し歩きます。同じ場所を朝、昼、夕と異なる時間帯に訪れ、光の角度によって変わる煉瓦の色味をスケッチブックに書き留めます。雨上がりには表面を伝う水跡が、晴れた日には乾いた土の匂いが記憶の手助けをしてくれると言います。

その土地に住まう人々への聞き取りも欠かしません。「この壁は私が嫁いだ年に塗り直した」「火事で一度焼けてしまって、その跡がまだある」。そうした声を集めることで、ただの物質としての壁が、時間と暮らしを内蔵した存在へと変わります。プロジェクトで制作される作品には、必ずその壁と関わった人々の言葉が添えられます。

こうしたフィールドワークの様子は、作家の制作ノートとしても公開されており、例えば古い建物の作品化の記録には、解体予定の建物を前にした取り組みの経緯が綴られています。

パステルによる色彩の再現手法

パステルでの再現において、酒井晃一が特に重視しているのは「色の階層」です。煉瓦壁の赤は単一の朱色ではなく、酸化鉄の含有量や焼成温度によって黄土色や茶色、紫がかった黒へと複雑に変化します。彼は現場で撮影した写真を大型化して色見本を作り、それと照らし合わせながら何層にも重ねていきます。

下地の色は通常よりも暗めに置き、その上から明るい色を乗せていくことで、年月を経た壁の深みが生まれます。途中で指や綿棒を使ってぼかしを入れることで、実際の煉瓦表面に見られる不均一な風化を演出します。画面のあちこちに意図的に「剥がれ」を残すことで、壁そのものが持つ時間の層を視覚化しているのです。

画面の縁は実物よりも少し切り詰め気味に構成します。これは「記憶が曖昧になる」効果を狙ったもので、実際に見た記憶と現在再現されるイメージのあいだに生まれる余白を大切にしているからです。完成した作品はパステル紙にまとめられ、原画として保存されます。

住民とともに育むワークショップ

プロジェクトの一環として、酒井晃一は地元の公民館や商店街で住民参加型のワークショップを開催しています。参加者はそれぞれが記憶する建物のスケッチを持ち寄り、酒井晃一がパステルの扱い方や重ね方を実演しながら指導します。自分の家の塀、友人の店のシャッター、実家のお寺の塀。それぞれの記憶がパステルの粉として紙の上に戻っていく過程は、参加者に強い感慨をもたらします。

ワークショップでは「色を正確に再現すること」ではなく「自分の中の記憶の色を思い出すこと」に主眼が置かれます。ある参加者は、子どもの頃に遊んだ裏路地の煉瓦塀を「もっとオレンジだったはず」と語り、別の参加者は「夕焼けのときはピンク色になっていた」と記憶を語りました。同じ壁を見てきたはずの人々の記憶が少しずつ異なること自体が、地域の歴史の豊かさを示す証拠になります。

これらの活動は、プロジェクト全体を通じて「町を自分ごととして捉え直す」きっかけを提供しています。酒井晃一が大切にしているのは、住民が自分の足で路地を再び歩き、自分の目で壁の現在を見つめる時間を作ることです。

作品に刻まれる風化と未来

町の記憶プロジェクトで生まれた作品は、時間の経過そのものに対する一つの問いかけでもあります。煉瓦壁は今この瞬間も少しずつ色を変え、やがて建て替えや解体によって失われていくかもしれません。酒井晃一はパステルによる再現を通じて、その移ろいゆく瞬間を「定着」させる行為を行っています。

作家にとって、作品は完成した瞬間から過去の存在になりますが、同時にそれを見る人々の記憶の中で新たな時間を刻み始めます。展示会場に並んだ作品の前で、かつてその路地に住んでいた人が足を止め、自分の記憶と照らし合わせる光景がしばしば見られます。作品は単なる再現ではなく、記憶と現在と未来を結ぶ媒介として機能しているのです。

このプロジェクトの根底にあるのは「町の断片を拾い集める」という姿勢であり、これは他の活動にも通じています。例えば、新潟の冬の一面として発表された冬の作品など、日常の小さな存在に目を向け、その移ろいを記録しようとする試みが広がっています。

記憶を次の世代へつなぐために

町の記憶プロジェクトは、ここ数年で新潟だけでなく、いくつかの地方都市にも活動の輪を広げつつあります。それぞれの街には独自の煉瓦造りや土蔵、路地裏の風景があり、それらを同じようにパステルで記録する取り組みが始まっています。酒井晃一は、記憶を記録すること自体が文化であると考えています。

記録された作品は、プロジェクトのギャラリーや地域図書館で定期的に展示され、デジタルアーカイブとしても公開が計画されています。子どもたちが学校の授業で訪れ、曾祖母の家の塀がどんな色だったかを知る手がかりになるかもしれません。そうした未来の可能性が、酒井晃一の活動の原動力となっています。

作家は緑の部屋での観察など、植物の姿の変化を追い続ける別のプロジェクトも並行して進めており、いずれも「移ろいゆくものを丁寧に見つめる」という姿勢で貫かれています。プロジェクトは今後も新しい路地との出会いを求めて歩みを続けます。あなたが住む街にも、きっと記憶に刻まれた壁があるはずです。

酒井晃一の町の記憶プロジェクトに関する最新情報は、ブログやSNSで随時更新されています。ワークショップや展示のスケジュール、関連作品の一覧は公式サイトからご確認いただけます。路地の記憶をともに描いてみたい方、活動を応援してくださる方は、ぜひ一度アクセスしてみてください。あなたの街の一枚が、次の作品につながるかもしれません。