緑の部屋プロジェクト 壁面のミントを摘み、香りのスケッチを描く
新潟県を拠点に活動する美術家・坂尾幸一は、視覚的な鑑賞を超えて、嗅覚や触覚を通して地域の記憶や風景を捉え直すプロジェクトを多数手がけてきた。中でも「緑の部屋プロジェクト」は、壁面に植えられたミントを五感で読み解き、その香りをスケッチという行為に変換する独自の取り組みとして、静かに注目を集めている。
このプロジェクトは、植物が持つ揮発性の香気と、それを受け止める人間の身体との関係性を問い直すものだ。坂尾は、参加者がミントの葉を一本ずつ摘み取り、香りの第一印象を紙に描き出す「香りのスケッチ」という手法を採用している。視覚と嗅覚のあいだを往復しながら、自分の感覚の動きそのものを可視化することを目指している。
壁は生きたキャンバスである
坂尾が「緑の部屋」と名づけた空間は、屋内でありながら壁面が植物に覆われ、刻一刻と表情を変えていく。ミントは成長が早く、剪定をしなければすぐに葉が密集し、光の方向や温度変化に応じて香り立ち方も微妙に変わっていく。壁という硬い構造物と、植物という柔らかい生命体が同居することで、空間は常に未完成の制作途上にある。
参加者が壁に手を伸ばし、葉に触れる瞬間、その葉の選び方でさえも表現行為の一部となる。若い芽のすっきりとした清涼感、開いた葉の深く甘い香り、茎に近い部分の草のような土の香り。同じ植物であっても、指先がどこを選ぶかによって、一枚のスケッチは全く異なる表情を帯びる。
摘むという行為が立ち上がる
ミントの葉を摘むことは、単に素材を取り出す作業ではない。坂尾はこれを「やさしい採取」と呼び、参加者の内面にある言葉にならない記憶や感情を引き出すための装置として位置づけている。葉を一枚ずつ手に取り、香りを吸い込み、紙に線を引く。その一連の動作のなかで、人は自分の呼吸や心拍のリズムに意識を向けることになる。
特に印象的だとされるのは、香りの変化を複数の線で重ね描きする参加者たちの姿だ。摘んだ直後の香り、数秒後に立ちのぼる甘さ、最後には消えていく余韻。三つの時間の層を一枚の紙の上に同時存在させるこの作業は、記憶の本質が時間とともに変容していく様子を映し出す。
スケッチ用紙に残る香りの層
緑の部屋プロジェクトでは、スケッチを描く際に、香りそのものを「層」として捉えることを推奨している。これは調香の用語を借りるかたちで、トップノート・ミドルノート・ベースノートという三つの段階に分けて香りを観察する方法だ。参加者はミントの香りを吸いながら、どの瞬間にどんな感情や風景が想起されたかをメモしていく。
| 香りの層 | 感じられる要素 | 想起されやすい風景 | スケッチの線の太さ |
|---|---|---|---|
| トップノート | メントールの清涼感、葉の青さ | 朝の光、朝露 | 細くシャープ |
| ミドルノート | 緑の甘さ、ハーブの深み | 川辺の草むら、風 | 中くらいで揺れる |
| ベースノート | 土の香り、茎の湿り気 | 記憶の底にある場所 | 太く柔らかい |
このような構造化された観察を通じて、普段は見過ごされている日常の感覚が立ち上がってくる。坂尾は、参加者それぞれのスケッチが並ぶことで、一つの「部屋」の中で複数の時間が交差する光景が生まれると語っている。
手を動かす時間としてのワークショップ
香りのスケッチは、絵を描く技術よりも、自分の感覚を素直に受け取る力を養う場として設計されている。坂尾のワークショップでは、初めに壁面のミントを自由に観察する時間が設けられ、その後、好みの葉を摘み取る。参加者は大きな紙の上に、目を閉じたまま手を動かして香りの輪郭を描く「目隠しスケッチ」を行うこともある。
これらの体験は、視覚に頼らない表現の可能性を探る試みであり、坂尾が主宰するワークショップでは随時募集が行われている。描くという行為が、他者との共有可能な「ことば」になる瞬間を、多くの参加者が初めて経験するという。
水の記憶と緑の部屋が交差する
坂尾の活動は、ミントの香りにとどまらない。新潟の川辺で水のもやを観察し、太陽のもとで蒸発していく水の様子を記録する新潟水記憶プロジェクトは、水という透明な存在が時間とともに姿を変えていく様を追い求めるものだ。
水の蒸発もミントの香気も、どちらも目に見えない変化として私たちの周囲に起きている。坂尾は、その不可視の現象を身体で受け止め、紙や映像といった形あるものへと置き換える作業を続けてきた。緑の部屋の壁面でミントを摘む行為と、川辺で水のもやを見つめる行為は、坂尾の作品世界において表と裏のように響き合っている。
陶片の染みから見える記憶のかたち
緑の部屋プロジェクトで扱う「香りの痕跡」と、もう一つの表現に通底するのが、坂尾が手がける陶片の作品群だ。陶片の破面にやすりで模様を彫り、染みを刻むおたのかけらの制作では、壊れたものの表面に残る記憶の痕跡を可視化する試みがなされている。
ミントの葉が放つ香りも、陶片に残る染みも、いずれも目には見えにくい「記憶のかたち」である。坂尾の作品世界は、触れることのできないものを手の中に引き寄せる、優しい手つきに貫かれている。どちらのプロジェクトも、失われゆく時間や断片化された記憶を丁寧につなぎ直すことを目指している。
香りは言葉にする前に消えてしまうことが多い。しかし、スケッチという行為を仲立ちにすることで、かすかな記憶のかけらを紙の上にとどめることができる。坂尾の作品に触れることは、自分の中の感覚を丁寧に見つめ直す時間を与えてくれるだろう。五感のいずれかを開き直す体験に興味のある方は、ワークショップの扉を叩いてみてほしい。壁一面のミントが、きっとあなたを迎えてくれるはずだ。